もとに戻って顔のお話し

投稿者: | 2018年10月9日

いつもご覧いただきましてありがとうございます。

三連休、停電に弱かったサーバー移動したり、その設定やらで鑑定できない状態が続くとシステム方からいわれましたので、その間呼ばれていた広島、岡山、京都に行ってまいりました。連休は混むので相変わらず朝三時起きでの弾丸ツアーですが「これも役。」と言われておりますので、行けと言われたらすぐ行くのみです。

さて、学ばせていただいている「顔」についてですが、なぜ顔を統合すること、なぜ顔が大事なのか。

それはずっと思っていた「神様のご神徳を受けれる人とそうでない、まったく神様のところにいって、どれだけ願をかけてもよくない逆作用しかおきないのはなぜか」という真理の答えの一つでもありました。自分自身がそれを体験し、原因の因果までたどり着けなければ、それを知ることはできません。

ここにお蕎麦があります。お蕎麦がおいしい、そばの実からつくられるのはしっている。だけれどもなぜそばを食べれば死ぬ人がいるのか。どうもアレルギーというらしい。アレルギーがなぜ起こるのか。それをさぐっていくと、どうも原因物質があるらしい、その原因物質はなぜ反応するのか。

そういった根本の答えをいただくには、自分自身がそれを理解し、理解して真理に近づいていくしかないわけです。それが悟りであり、修行でもあります。

自分は神様のところにいっても悪いことばかり、神様はなにもしてくれない!なんでなんだ!と思い悩むかたもいらっしゃいます。ですが、その原因をきいても、~~を祓え。顔はずせ、などの言葉しかおりてきません。そういうときは、大体その祓っていった、外していった先にまたつかめる真理があるのです。

道理があって、道理どうりになされば因縁などつまぬもの。その道理がわからなければ、因縁など見えません。見ていくこと、理解してはずしていくこと。それがいまずっとやっていることであり、自分の願いをかなえるためのプロセスです。どうも、わたくしの願いは人が生まれる前まで道理を知らなければかなえられないものらしいので。

さて、前置きは長くなりましたが顔のお話しです。やっとここでずっとつづいてきた「ひとの顔」の学びがおわり、一つの真理がわかりました。

人がたくさん顔を付けるのは、つらいことから逃げるため、恐怖から逃れるためです。本来親からは顔を一つ、自分の顔だけ頂戴して生まれてきます。そこで虐待、無視、両親の気をひきたい、あるいは両親の愛が足りない、そういったことや、周囲と同じようになりたい、そういう渇望が生まれたときに、まず一番最初に顔ができます。そしてそこに悪魔や悪意、そういったものが巣くいます。それらの悪魔や悪意が、次から次へと欲をつけ、顔もつけていくのです。そして本当の自分の顔は傷ついた分なくなっていく、顔たる核心がない。核心がなければそのかわりに「逆心」が憑きます。あたかも自分自身の顔のようにふるまっていますが、自分本来のお顔にかわってついた、なにごとも反するものです。道理に反する存在です。これがあると望んでいるのと逆なことをひきよせます。

その状態で神社にいって、お願いなさったとしても、神様はそのような状態では「神様に顔向けできていない」ゆえに、降ろせるご神徳も向けてくれた顔分だけしかくださいません。向けた顔の分だけ、その分だけ報いてくださる。顔がほとんどない、自分がない状態であれば、それほとんど報いなく。きちんと顔向けなさっていれば、その分だけ。

様々な理由があるのです。

そしてその理由のほとんどは内側からのものです。

自分のことがわからない、自分がない、自分がなにを考えているのかわからない。そういった思いがある方は、核心がないのかもしれません。

なお、顔向けできてはじめて許される道理や罪もあるものですから、また来週九州にお許しいただきに行ってまいります。

因縁切るというのは簡単なものだけではないのです。それは真理と道理を知ることと同意義だからでしょう。

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