夫婦ということ

投稿者: | 2018年10月9日

いつもご覧いただきましてありがとうございます。

ちょっと順番が前後いたしますが、夫婦のお話しです。

本来人はまず、一人となりて、夫婦になり、子をさずかる。これが天の道理です。道理に反することをなさると、ゆがみが生じ、ゆがみが大きくなると、様々な不都合が生じます。歪みが小さければさほどの害はありませんが、大きければ当然でてくる害も大きくなります。

さて、夫婦とはなにか、ですが、

運命を一つにするものです。魂をあわせ、同じ因果、同じ運命を一緒にしていくものです。これら夫婦というのは本来は決まっています。ともに歩んで同じ運命を行くものが夫婦ですから、当然因縁切っていくのも悪意悪魔祓うのも、夫婦でなさらないと運命も変わりません。一人だけ悪意悪魔切っていけば、それは夫婦としての形を保てなくなっていきますから、ともすれば別れるということになってしまいます。運命がともにいかなくなるからです。

運命が一つになる夫婦というのは本来決まっています。定まっています。天の道理においては定まっています。

親からはずれ、一人となり、己の人格がしっかりなさっていれば、此の世独身を貫くと決めていない魂以外はパートナーと引き合います。

ですが、欲による結婚、一人であることによって不都合が生じるからといって焦った結婚をなさると、この「運命一つになる相手」ではないために、結局のところ寄り添えることないまま、終えてしまいます。そこで子供ができると大変因縁解消も大変ではありますから、別れるならそれは早いうちがよいのはよいでしょう。

ただ、問題はなのは配偶者がいながら、本当の相手を見つけたときです。その場合、当然不倫になりますから、姦淫の罪も加算されます。配偶者ありて他の人と情を交わすことは、それなりの罪穢れにはもちろんなります。

そこはまあ置いておいたとして、よくある「本当の自分の相手」をそこで見つけてしまった場合どうなるか。

運命が二つに分かれます。二つの運命の道が続きます。体も魂も一つなのに、行くべき道が二つ同時に存在してしまうのです。

Aの道はいまの相手との道であり、その道の先の運命はある程度決まっています。

Bの道は次にでてきた相手との道であり、相手と情を交わした段階で運命はまたそこにも敷かれます。

自分の魂や、運気、リソースは一つの運命分しかないのに、道が二つあるのです。ビル一個しかたてる資源がないのに、二つビルを建てなければならないというタスクが強制的にできてしまうわけです。

そうなれば人はどうなるか。運命が二つ両方敷かれていて、そこに自分は立たされている。無意識でわかるのです。AにいってもBにいっても、リソースは別れてしまうから、半分の中途半端なビルしか建てれない。だからどっちも選べずにフリーズしてしまう。

ここで、むりにAの運命ひっぺがしたとしたらどうなるか。

リソースはAに流れたままです。Bはリソースが半分しかない。Aとだけ添い遂げたときよりも、運命は半分程度しかなく、もらえる運も、人生の報酬も喜びも半分です。

離婚してもいまいち幸せになれない、というのがまさにここにあたります。金銭的なものだけでなく、リソースもそっちに持っていかれるからです。

選べないのも、うまくいかないのも当然です。Aとの運命が流れているからです。Aの相手とともにする運命、運気、それらが流れ続けるからです。

もし、本来の自分の相手との道がBというのであれば、Aとの運命のリソースを回収すること、Aとの学びをおわらせて、Aとの因果を断ち切ること。そうしなければ、半分の資源でBの相手との人生を過ごさなければならないので、報いも、資源も半分程度になります。半分でも十分お持ちの方はよいですが、そうでない方は、運もリソースも半分のままで行くこと、それをBの相手も受け入れて、自分がその相手の半分を埋めるつもりで努力なさることです。半人前の相手を自分が1.5人分頑張っていかれる覚悟が相手ができればそれでもよいでしょう。

不倫したり、その清算なさるのはなかなか因縁切っていき、リソース回収すること、元の相手に十分に恩はらうことふくめ、なかなか難儀なことなのです。

コメントを残す