進化するということ

投稿者: | 2018年9月28日

いつもご覧いただきましてありがとうございます。

書きたいテーマはたくさんあるのですが、なかなか手が追い付きません。お返事したり更新したり、次おりてきたことに対して、これはどういった意味か、どういうことを教えていただいているのか、考察したり、神社いったり、依頼をこなしている間に他人のこととして婉曲的に教えてくださったり、毎日息つく間もないくらい時間がありません。むろん家のこともあるのですが、各種返信遅れていますが、その内容にそったことが下りてくるまで少々お待ちくださいませ。

何度かここでもお話ししていますが、天からなんでも教えてもらえるなどそういうことは決してありません。神様のお声を聞ける方でも、自分で悟らなければ、次の段階のことをお話しはしてくれません。

たとえ不具合があった、うまくいかない。その一つのテーマとっても、どの程度自分が真理を理解しているかで降りてくる深度が違うこともお伝えしている通りです。そのため、わたくしなどよりも、はるかに深く因縁や心理を掘り下げていらっしゃる方ももちろんいらっしゃると思いますし、その人人によっても降りてくる言葉は同じ軸でも深さが違うでしょう。

わたくしも以前とあるテーマで他の方に因縁きってもらったことがありました。それでも一向にかわらない。なぜだと思い、悪意悪魔祓っていき、さまざまな神様との因縁をほどき、民族の因縁切って、そこではじめて出てきた主人方の因縁でてきて、それをはずしていったらさらに根っこでてきて、と果てしなく深い根っこの因縁からくるものだったりして、ぐったりしたことがあります。

だからといって、その切っていただいた方が能力がない、というわけではありません。その方のおかげでみえてきたもの、指標というものがあり、学びがあり、その方を見て学んだことがたくさんあっていまがあるのです。

因縁というのはよいものもわるいものもあります。蜘蛛の糸のように縦横上下、張り巡らされた糸のようなものであり、それぞれがいろいろなところとかかわっています。人はその蜘蛛の巣の上のくものようなものです。そこに、運やチャンス、そういった蝶が虫がよってきて、蜘蛛はおいしく楽しく生きていきます。

そしてその蜘蛛の糸は生まれた場所、貼った場所に固定されるようなもの。生まれた場所によってすでに糸の紡ぐ場所が決まっているのです。エサがこない場所かもしれません、水場の少ない場所かもしれません。そこが不自由なら新天地に巣をのばしていかねばなりませんね。

ですが、人はわかりません。どうやって糸を張ったのか、その糸がなんなのかすらわかりません。どこどうすればいいのかわからないため、悩みます。

その経糸、横糸がなんなのか、なぜそうなっているのかを理解し、認め、この糸があるからいけないんだな、と天にはずしてもらうのが因縁切りの正道です。自分の複雑に絡んだ糸の中で、これは不要なものである、と整理し、新しい場所に糸を紡いで、新たなる運命を紡いでいくのです。この糸が他の巣と絡まっているから移動できない、この糸が途中で切れている、そういったものを自らの内を見て、天にはずしてもらうことで、天から新しい糸が紡がれます。そうしていけば蜘蛛の巣は強度を保ったままです。

ですが、自分で自分の中を認めて、因縁認めて外していくのでなく、鋭利な刃物もって因縁ぶった切ることも、ある程度能力ある方であればできます。蜘蛛のいとをはらうごとくです。あるいは神様にお願いしたとすると、その部分をすっぱり切ってくれるでしょう(これは天からしても禁行為ですから、よほどのなにか理由があるときにかぎります)。

当然、すっぱりと切れるでしょう。ですが、その切った中には必要だった糸も当然あるわけです。よい因果も因縁もすべてすっぱり切ってしまう。

そうなるとどうなるか。蜘蛛の巣は崩れます。崩れたら足場がすくなくなり、自分の生きざまも少なくなります。おさまるべきところにおさまります。蜘蛛も無事ではいないかもしれません。そのあとその糸をつなげる、それができる方であれば話は別。因縁切った。切ったあとはどうなのか。そこまで深く考えていらっしゃれば、到達されていればよいでしょう。

むろん切った範囲が大したことなければいいでしょう。巣は多少のダメージですむというものです。ですが、切った範囲が大きければどうでしょう。

蜘蛛の巣は小さくなっていき、エサもとりにくくなる。そこでどうしよう…と悩んでも、巣は小さい。なんでこんなところに生まれたんだ!なんでたすけてくれないんだ!と思っても不具合は大きく、今度は糸をどうして大きくしていこうかと悩むでしょう。

正当に、糸を切っていくこと。そしてその不具合をおこす糸をきちんと自分で認めること。学ぶことです。

妄執と対抗心があれば嫉妬になります。愛が自分にないかもしれません。ないもの、あるもの、日々の生活の中でみせてくれるものを逃さないことです。

なぜあなたは神仏に惹かれましたか。その神仏とのなにか因縁があるからかもしれません。

なぜ、各地を転々としていますか。それはその土地、あるいはその神様との因縁かもしれません。

なぜ、親や子にいらいらしますか。なぜ兄弟争いますか。なにをお互い抱えていますか。その糸はなんですか。

その考えるヒントにこのブログがなりますように。

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