神社等々でご神徳をもらえるかもらえないのか

いつもごらんいただきましてありがとうございます。

さて、神社にいって願う方はたくさんいらっしゃいます。ですが、いくら願ってもかなわない、いくら願ってもよくならない。そういう話しはたくさんいただきます。幸せを願った、良縁を願った。すなわち自分のプラスになることを願った。すごく願ったのにかなわない。なぜなのかという問い合わせが来るときもよくあります。

そのあたり「なぜ神徳をいただけないのか」「いただけない人がいるのか」についてきいてみました。今回は手厳しいお話しです。手厳しい話よりももっと実用的なお話しがいい、という方は閲覧をお控えください。書くのを少しだけ迷いましたが、教えていただいたことですから、かきとめておきます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「カルマというのは瑕疵である。貸しである。瑕疵すなわちあるべきものがない。備わっているものがない。カルマ重い、罪重いものの魂は人の形をしていない。人以外、あるいはうつろをしている。

おいしい料理を出す、高い料亭にいったとする。そこでお前は対価を払い、料理やサービスを楽しみにまつ。3時間たっても料理はこない。それでもお前は求めるから待つ。待って待ってまった末に、中居がきて、料亭にふさわしくない料理、そうだな、ただのカンヅメのスパゲティ、サラダ、デザートまで一気にだされ、しかもそのサービスが悪い。何もいわずただテーブルに投げつけるだけ。

そこでお前は怒るだろう。こんなに待ったのに投げるように渡すのはおかしくないか。お待たせしましたもないのか、なんでこんな粗末な料理なのだ、なぜデザートまで一緒にもってくるのかと怒るだろう。

それと同じだ。

3時間も何時間も待つのは求めている、期待しているからであり、出されたものを期待はずれだ、こんな素敵な外装だからよい料理がでる、サービスもふさわしいとおもったのに!と怒る。

これが人が神社にいき、願いをし、なぜ求めておるものがこないのだと怒る。待ったのに期待はずれだ、なんでなんだとくすぶる。

よいかよく聞け耳を開いて聞け。

神が人におろすものは大きなものではない。おおきなものを与えはしない。

なぜか。それは許しておらんからだ。

自分が過去にわたりてなされたこと、あるいは自分の中の罪、それにて魂人は人の形をしておらぬ。小さく、あるいはヒトガタをしておらず、たくさんのものを憑けている。

とは言えど、与えてはおるだろう。その瑕疵ある身で受け取れるだけのものを渡している。瑕疵があり、胃にも腸にも穴の開いているものにたくさんのものは食べられまい。人の形していない魂に降ろされるものは限られている。

ただ、不浄は祓おう。不浄や罪、それらは祓われる。神道が祓いに特化しているのはそれである。

不浄祓い、滞納祓う。滞納はらいて許されて、いただくものをいただけるのだ。」

とのことでした。

与えられるものは与えられているけれども、その魂の状態に応じて、ということなのでしょう。つまり、与えられないということはある意味、与えられない自分を映していただいているということなのでしょう。

 

自分のカルマ、すなわち瑕疵を身の内を見つめるということです。瑕疵があるから傷つくのであり、傷つくからこそ、人は救いを求めます。なぜそうなったのかを悩みます。なぜこんなひどい目にあったのだと悩み、自分のなにが悪かったのか、相手の何がわるかったのか、悩みます。そこからはじめて一歩踏み出します。

先に瑕疵をなくし、いただける状態まで自分の魂許してもらってから、いただける。

じゃあどこがどうすれば許されているかわかるか。一つのヒントになりますが、いくつかのクライアントさんや自分たちに共通して感じることですが、

神社にいき、なにか厳かな雰囲気を感じたり、神聖だと感じたり、あるいは祓いをお願いしたあとにすっきりしたような感覚を受ける。なにか心が振るわされる。これはすなわち許される前、その途中です。許しを得ていない状態です。

許しを得ると、神社に入っても「通されている」ので何も感じなくなります。祓いを願っても、すっきりもせず、通常の状態。この状態はその神様に許していただいてる状態です。入っていいよ、とご眷属様ふくめて解放されている状態だからです。あくまで一つの目安ですが

最初は神社にいくのが面倒、教会にいくのが怖い、なにかしり込みする

その状態がもうすでに「許されて」いない状態です。

気軽に入れる、なにも感じなくなる。それが許された状態です。一つの参考になさってください。

 

 

 

 

 

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