いつもごらんいただきましてありがとうございます。
ローマ法王様が、悪魔というのは神話の中ではない、生涯人が向かっていく問題だという発表をお出しになられました。まこと、その通りだと思います。ここでも書いておりますが、悪魔というのは決して物語の中にあるものでも神話の中にあるものでもありません。人の内なるものの一つです。悪魔がないひとなどほぼおりません。煩悩も、悪魔も因縁をつむためのもの、妖怪などは罪を犯した人につくペナルティです。人というのはそういうものがたくさんひっついているんだよ、というのをわたくしたちは気づいていかねばなりません。
さて、今日の神様からのお言葉は「気付く(築く)ことは、傷つくことだ。傷つけられて、気づくことができる。罪あるものは傷つけ、傷つけられ、こわして壊されてそこから考えて清めて、喜びを得るのだ。気づかれることは、傷つくことである」
とのことです。人というのは傷ついたときにはじめて気づきを得ます。平穏で、なにも平たんばかりの道ではなにも学べません。傷ついてはじめて、心がこわされたり人の心をこわしたりして、はじめて「考え」ます。どうすればよかったか、何が問題なのか、考え、認めて、その罪をみて、そこから清めて喜びを得ます。いま傷ついたとしたならば、それは喜びのためのステップだということです。いまなにか人に傷つけられたりいやなことがあって心が泣いていたとしたら、そこは大きく喜ぶためのプロセスです。
今日はもう一つ
「才能があるもの=栄えるものではない。才能というものはそれだけ増やす運が偏っているものである。才能がないのを嘆くのでない。普通というのはこれ素晴らしいものである。普通であるからこそ、好きなことを延ばすことができる。迷うことができる。あれもこれもどうしようか、なにをすればいいのかと迷うのは普通だからである。才能あるものはまよえぬ。えらべぬ。それしか増やすことができぬ。普通というのは喜ばしいことであり、才能のあるものをみてなげくものではない。普通、これどれだけ尊いか、もつものはわからぬのである」
才能がほしい、もっとうまくなりたい。という悩みやわたしの才能はなんですか、とよく質問されます。その一つのこたえがこれです。才能があるからといってそれは人に認められること、栄える事ではありません。才能があるからといってそれで食っていけるわけではありません。才能がなくても稼いでいる方、栄えている方はいます。それは栄えない、認められないなにかがあるということです。
また、普通、というのはとてもよいことなのだそうです。なんでも好きなものが選べるからです。まようのもなにをするのも、普通になんでもできるからです。何もできなかったら、そもそもまよいません。これしかできなくて、となるでしょう。料理ができる、部屋も片づけられる。服も選べる、仕事にいける、接客できる。これ普通であることどれだけよいことであるか、普通にそれができる人にはわからないのです。
自分の好きなことを提供すればよいのです。才能のあるものをねたむことも、こきおろすことも、すなおに認めないことも、それは対抗心です。対抗心があると足を引っ張られると先日書いたと思います。
普通であること、普通に今仕事ができること、それをまずあたえられた才能だとおもって喜び、いただくことです。