神をかえるということ

投稿者: | 2018年3月30日

いつもごらんいただきましてありがとうございます。

他の宗教でもなんでもよろしいですが、それまで家では仏教あるいは神道の神様をおむかえしたり、そこに先祖ともども一緒にいらっしゃったのに、それを排してあらたな神様を迎えてしまうと、もとの神様は、その一家に関心を失います。

子孫が、神社仏閣にいこうとも無関心です。お賽銭は徳としてたまりますが、そこの神様のご加護やご支援、さらにその神様を信仰なさっていた祖先のとおみかみのご加護はいただけません。いくら神社にいこうとそもそも「神をかえたでしょう」という無関心さです。

日本の家には神様、神棚がいて、仏壇、仏様もいます。両方ともそれは両立しています。八百万の神様という土壌のある日本ではすべての神様をお迎えできます。わたくしもどこにでもよばれたところにいきます。家にもたくさんの神様や仏様も祀っております。なので、なにかほかの神様をお迎えして信仰なさる、というのはよいのです。きちんとお世話なされるならそれでよいです。家系には、それぞれ仏様のご加護のあつい家系、神様のご加護のあつい家系があります。信仰心があつい方ですと、死んだらたくさんの神様のおつかいがきて「さあどの手をとる?」なんていうお話も聞きます。天につながっている信仰は、他の神様との信仰も共存します。他の宗教・信仰を尊重するという考え方です。他の信仰も尊重し、みなが手をとり天とともに歩むのに、なにかを排する、害すということはありません。

それまで家がつながっていた神様を排すること、それは人の選択であるから、自由です。ですが、一家一族が排した神様から関心もたれなくなるのもまた、それも自分の選択によってなしたことです。

その場合、別に救いがないわけではありません。その地元の神社と、天照様のいらっしゃるところ、出雲の神様いらっしゃるところ、八雲の神様いらっしゃるところ、そこに詣でて排したことのおゆるしをいただき、ゆるしていただければ神様の関心ももどってきます。

神様は人を信頼していますから。関心もまたいただけます。

ただ、一番よろしくないのは救いをもとめて、その神様やそのお言葉、お心を恨み、憎むことです。これが一番よくありません。

信仰をかえて、ご加護がもらえないことを憎んだり、なんでと恨むこと、恨み憎みを持つことは全部己にかえってきます。

いまおきていることはすべて自分の因縁によるものです。内側の問題です。

神様を、かえるときにはご留意ください。

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