信仰というもの

投稿者: | 2018年3月16日

いつもごらんいただきましてありがとうございます。

「信仰でしか人は救われない」

以前天からそういわれたことがあります。そのときにはまったくもってわからないかったことですし、「信仰だけで人間生活できないしなあ」と思っておりましたので、そうかなあと思っていたのですが、最近その神意というものがぼんやりとつかめてきました。

平たく言うと、人は人では救えない、人は信仰を持つことでしか救われない、ということです。これは別になんらかの宗教をもて!というのではありません。以前、カトリックの神父さんがおっしゃっておりましたが「信仰=宗教ではない。信仰している、というと宗教?といやなかおされるのが本当に嘆かわしい」この言葉が真理をついていると思います。

信仰というのは「人ならず、神という存在、天という存在がある」と魂から理解し、受け入れ、天とともに歩んでいくことだとわたくしは思います。

信仰心が少ない中、守護神様のお言葉おろそうとしてもノイズが走り、うまく会話できない時期もありました。しかしそのお言葉が実際事実であり、自分たちがよくなっていくと、ああ、本当に神様がいらっしゃって、祓って導いてくださるんだなと自分自身魂から理解するとスムーズにお言葉取れるようになります。

天とつながるには、こちらの受け皿の問題が大きいのです。天を神を信じずに、自分の現世利益のみを神社で願って、うまくいかないじゃないかといってもそれは仕方ありません。それは現世利益をくださる神様以外いらない、と人間側が選んで背を向けているのと同様です。自分の積んだ因縁をみず、因縁や罪穢れ払うことなく、成功しようとしてもそうはいかないでしょう。

日本にはむかしからお天道様が見ている、という言葉があるように、たとえ人から見られなくてもまさに天がみているから恥じない行いをしよう、という道徳があります。これは天、つまり神様がそこにある、ということが当たり前だというお心から来ております。

それを「神なんていない。だれも救ってくれない」というお心で、欲に走ったり、各教えによりしてはならないよ、という偽証や、姦淫、放蕩にはしることをなさると、必ずそこには因縁・罪・穢れが生じます。神様がみてるんだな、とおもうととどまれるのに、それに走ってしまう。欲のままにつっぱしってしまう。そうなると歯止めが利かなくなります。

信仰心とはまさに神様がある、と、その教えというのは神様のお言葉なのだ、と信じて進むことです。宗教は、その教えをわかりやすく伝えるものです。

以前、「さからうもの」のお話をしました。神様がいない、とさからうもの、これも立派な悪意であり、これがあると天からの導きがすんなりきません。困っているときに導きを妨げてしまいます。

人がよく生きるため、健やかに栄えていくための教えが聖人たちによりもたらされたものをわたくしたちはいつでも手にすることができるというのに、それを見ないですごすことはとてももったいないことだと思います。

実際、徳をつむと、困っているときにはなんだかんだ助けがきます。陰徳をつんでいると今月ピンチというときにお金がはいったり、悩んでいるときにはたすけがきます。就職でこまっていてもどこからかよいお話がきます。入ってくる仕事の質が変わってきます。すぐすぐとはいきません。マイナスが多い方はまずマイナス清算してからですので実際よくなったなあとかんじるには一年以上かかるかもしれません。ですが、確実によくなっていくことは確かです。見返りをもとめないこと、それはとても尊いことです。

わたくしは、教会にもいきますし、神社にも行きます。むろん寺社にもいきます。それぞれ、その罪穢れを祓ってくれるという導きがあればどこにでも参ります。そこに宗教の壁はありません。どの神さまも「自分とこだけにこい」なんておっしゃいません。天はどこでもつながっているからです。誤解を恐れずに申しますと、ネットにつなげるのにマックだろうがウィンドウズだろうが一緒です。得意分野と処理が違うだけです。

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