快楽と喜びのこと

投稿者: | 2018年2月8日

いつもごらんいただきありがとうございます。

おりてきた言葉はいかなるものでもクライアント様にはお伝えしています。それが受け止めるにはしんどい言葉でも、おそらくその方には受け入れられないことでもお伝えしております。それで相手の反発をいただきましても、まあ仕方ないことかなあと。いつか、いずれの時かでもいいので、振り返ってああ、そういうことだったのかとおもっていただければよいですし、すくなくとも守護神様がその方にそれを下ろしてきたということは必ず意味があるのですから、淡々と行うのみです。

さて、快楽というのが最近よくテーマで出てきます。快楽を喚起するものは今の世満ち溢れておりますね。昔は努力しないと手に入れれなかったものでも、いまだと簡単に手に入ります。きちんと対価を払わなくても違法DLでいろいろな本が読めたりしますね。きちんと対価を払わないで何かを得ることは必ずなにか違うところで払い出しされます。ただより怖いものはないのです。

話がずれました。喜びや快楽とはなにかというのを神様方にききましたところ

「本来人は努力をし、そのあたえたれたお役目をこなし、ひびのお勤めをし、喜びを天から許していただくものである。だれかをよろこばせ、ともに歩み、愛とともに生み出すのが喜びである。いま人はすぐ手のとどくところに快楽があるから安易にそちらに走ってしまう。瞬間的な、刹那的な満足を快楽という。その時はいいが、しばらくするとむなしい。だからこそまた求めてしまう。快楽を求めてしまうあまりに、人はその快楽を得るために罪を犯す。お役を怠る。よからぬ快楽に身をゆだねる。そうなるとその罪穢れにより、次うまれるときは喜びを欠損して生まれてくる。何をしても楽しさが薄い。こころから喜ぶ、成功してうれしいということは欠けて生まれる。なぜ心から喜べないのか、感動しないのか、どこか冷めてしまうのか、それは喜びを感じる魂がかけているのである」

とのことでした。とかくこの世は快楽が多いですし、人をおとしめる。くさす。だれかがたたかれているのに興味をしめす。他人の不幸をみて、なんとなく満足を得る。これも誤った快楽です。快楽で満たされてしまうと、本当の喜びが遠のきます。達成した、何かを生み出した、成功した。こころからだれかに感謝したくなる。そういうお心が欠けてしまいます。

人に生まれたからには喜びを得たいですし、喜びを分かち合っていきたい。そう思われたら、ぜひ積極的にご自身の罪穢れを祓い清めていってください。快楽よりも喜びをもとめる。そう願ってください。

コメントを残す