神さまの言葉は重い

投稿者: | 2018年1月26日

いつもごらんいただきましてありがとうございます。

神さまから下ろした言葉というのはそれが文字であろうととても重くて苦しいときがあります。とあるクライアント様にお返事をしたためた際に、通勤途中でそれを見、

「息ができないほど苦しくって、本当に死ぬかとおもった。文字を見ているだけで死にそうだった」

らしく、緊急で連絡がきました。また、見ると泣いてしまう方や、ものすごく怒りを覚える方もいらっしゃいます。それだけ因縁深い問題のときには体が反応します。その因縁が解消されたとき同じく文字を読んでみてください。何も感じません。それがある意味解消したよという目安にもなります。なのでセッションはつらいこともあるでしょう。先に申し上げておきますね。

つらいこと・重いことをおろされたときはさすがにわたくしも覚悟をきめます。どういう返答がきても、それに対応しなければならないというあるいみ覚悟です。

相手が罵倒しようと、泣かれようとそれが本人に必要だからおろされたものですし、それを受け止めて伝えてお手伝いしなければならないからです。

そして一つの疑問に答えがでております。なぜ人は「自分自身に原因があるよ」というところ、それをこうして伝えてもそれを認められないのか。それは簡単です。とてもシンプルでした。

「認める」というお心が本人にないからです。

どうですか、衝撃でしょう。この認めるという気持ちがないと人を認められません。「いや、この人はできるけれども人間性はなあ」とひねくれてみたり嫉妬してみたり、何か言われたことに対して即時「なんでそんなことをしないといけないの?それ必要?」と否定がむいしきからポンっとでてきます。ともに歩んでいく周囲に対して、受け入れる、認めるというお心がないのです。これは魂がかけているからこそおこります。

なぜか他人に認められない、というときに、自分でそれをみとめ、認めるという練習をなさることもよいですが、それを天にのぞむこと、認めるというお心を満たしてほしいとみとめることも大事です。

そのご神徳を下ろしてくださる神様はミヤスヒメ(ミヤズヒメ)様です。この神様のエピソードはまさに受容のひとことにつきます。相手がどうであっても、自分自身はそれを認め、受け入れ、そのお役をつとめるというお心のはたらきです。

お近くにおまつりされている方は、どうぞご参拝なさってみてください。

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