迷うのはなぜか

いつもごらんいただきましてありがとうございます。

人はなぜ迷うのか、というのを天とお話ししたことがあります。動物は迷わないのに、なぜ人は迷うのか。何故人は惑わされ、自分の意思を他にゆだねてしまうのかと効いたことがあります。

「それはそのものが弱いからである。弱いゆえ、きめられぬ。弱い故、付け込まれる。怒りが湧き出るのも、悪魔につけこまれるのもそのものが弱いゆえである。芯が弱いのは、魂が芯につながっていない。ふらふらとした状態だからである。これしかないと思う人間は強い、悩むことがなくそれだけに目をむけるゆえ、周りにながされぬ。弱いものよ、流されるものは己の中に芯を持ちなさい。他に求めてはならぬ。他は己にあらず。芯がぶれるなら祓い清めなさい、中にあるもの、余計なものをすべてはらいきよめ、己の中が空になったとき、はじめて芯に触れることができる。強きものはぶれぬ。なにがあってもながすことができる。不安があってもかきみだされぬ。悪意、悪魔とてつよきものには爪かすめることもできぬ。」

強くなるには、迷わされないほど強くなるには、これしかないという何かを自分の中に道を通すことか、あるいはどんどん清めていき、自分の中に迷いや、欲望、妬みの気持ちがでたら、それがなくなるまで清めていき、空になったときに己の芯にふれるか、なのだそうです。

武道をなさる方もそうですね、強くなる方には迷いがない、その道いかれ、これしかないとつぎ込んでいるかたはやはり強くなります。迷いがでたら、それを清め、祓い、それでまたその道を行く方は強くなっていかれる。

道、というのはゴールなどありません。神道、茶道、弓道、剣道、合気道。どれもこれも自分の中に一本道を通していく一つのメソッドでありプロセスです。己の中にこれという道をなんでもいいですからとおし、そこの道をいかなることあっても進むと決めた方はふらつくことはありません。

たとえそれが人から賞賛されるものでなくとも、地味なものであっても道は道です。強くなるための道は入るに簡単、究めることのできない道です。

この一本気の通った方とお話しすることはありますが、とてもあっけらかんとしております。あるいは淡々としております。たとえ悪い噂を流されても、他人にののしられてもどこふく風です。「そんなの自分のやりたいことの前だと些事である」といわんばかりに流して、きにせず、飄々としております。本人に悪意がないので、他人の悪意にいらつくこともひっかかることもないといういい例だなあといつも感心するくらいです。

「人をねたむこともない、比べることもない、浄化っていわれて最初はなにいってんだこの女と思ったけれどもやってみると全然ちがうよね」と言いながらいつも笑っていますが、彼の人生も大変だったのを知っているため、言葉の重みを感じるなといつも思うのです。

 

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