かみあがるということ

投稿者: | 2017年10月12日

いつもごらんいただきましてありがとうございます。

さて、今少し長期案件をかかえております。あと少しで終わるのですが、最後の山がなかなかクライアント様の意識一つなのですが、長年の因縁ものというのはなかなか難しいものですね。

人間は、人間になり、そこから肉体があるがゆえの学びをします。たまには悪いことをし、それを解消し、ひどい目にあったり、あわされたり、愛したり裏切ったり、子を産んでそだて、子に育てられ、死をみとり、心のこりをし。

そこで人は一つ一つ学んでいき、より人間性をあげていき、やがて人間を卒業します。もちろん順調な旅路ではなく、途中であまりにも転生にさまたげあると、畜生道におちたり、霊力あるままみちを踏みはずして天狗道に寄り道したりいたします。

人間が避けて通れないものがあります。人は罪を犯します。人は苦しみを経験します。その罪を贖罪し、その罪をゆるして、魂を磨かねばならないのです。

人が人を卒業するときにはいろいろなルートを通りますが、一つが原罪の解消です。イエスキリストしかり、ジャンヌダルク然りです。人が神を裏切ったことにより、人の中に生まれたのが悪魔であり、裏切りとは人間が人間であるという時点で抱えている罪です。神を裏切った罪を贖罪するには、神に裏切られるという大きなイベントを通ります。信じていた神にうらぎられ、人になじられ、殺される。それを受け入れること、これが人間として最後の因縁解消であると信じ、殉じることで、人の罪を洗い流されて人間を卒業します。

おおよそ西洋の神さまがたはこのようなルートを通って人の卒業を期します。最後に試すとはまさに西洋の神様らしい発想です。日本の神様はそのあたり緩いものがありますので、

悪事であっても魂の中にある罪穢れであろうと、芯の芯まではらいきよめたらもう罪穢れはないよ、もうないんだよ、罪穢れのないものはもう、人ではないよ。としております。己の中にあるものをみつめて、祓い清め、時に心の中の悪意にむかい、それを祓い清めていく、その心の悪意をトラブルやすりあう人の縁で気付かせていただき、祓い清めていく。

そうして神にあがること。これが随神の道です。

人生を楽しみながら、魂みがきながら、いきていけば、どんどん神性があがってきます。どんどんあがっていくと、ちょっとしたことでも動じなくなり、いらいらしなくなします。ただ、そこにあるものがあるとフラットにみるようになります。

浄化していくと、どんどん芯にたどり着きます。縁のある神社に足を運び、心をかたむけ、いま日本にうまれてきたというメリットをありがたく受け止めて、生きていければいいですね。

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