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指すの神子の社

なぜ修行というものがあるか

「ある」「ない」はだいじ。取捨選択を。

最近のご相談で、霊能者になりたい、霊能力の修行というのはどうすればいいのか、というものがありました。たまにあります。こういうご相談。ここですこしまとめてご説明でもしておこうかと思います。

そもそも霊が見えるだの、なにか聞こえるだのというのはその人の持って生まれた「特性」みたいなものです。なんでその特性をもつか、というのはひとまずいろいろあるのでおいておきます。耳がとてもいい、鼻がとてもいい、舌が複雑な味でも見分けられる、足がとても速い、そういう特性のようなもの、すなわちその人が「もっているもの」「ある」ものです。これは幼少期、ちいさいころから「持つ」かどうかです。それが少しでも「持っていれば」それをきたえて伸ばすことはできます。

ですが、最初からまったくないひと、というのはもってないものをのばすことはできません。ないものをきたえよう、発言しようとしても、そのひとには因子はないので「ない」のです。その因子が血統からくるもの、あるいはまあいろいろ要因あって「ある」ひとはいますが「ない」ものは「ない」ので、それ以外の能力をのばすことをかんがえましょう。ちょっとでもあれば、それを少しは「研ぎ澄ます」ことはできます。

「ない」のにそれを伸ばそうと高額ななにかに手をだしても「0」を「1」には基本できません。基本っていうなら例外はあるのかといわれるとこれ事例いろいろありますので、ちょっとはぶきます。

修業とはなんのために?なにをするのか

修業というとなにかこう、滝にうたれたり、瞑想したり、あるいは写経をしたり、千本ノックのようにおなじ「行」をくりかえしたり、様々なことを思い浮かべると思います。

その本質はまあぶっちゃけつきつめてみると大きく一つは「快楽」を遠ざけること、快楽をあびないようにすることです。

どこの宗派でも、女人を断ったり、俗世間からとおざかったり、あるいは瞑想したり、奉仕したりしますが、この修行を俯瞰してみると、「快楽」を遠ざけているのがわかるかと思います。

なぜかというと、快楽というのは「とんでもなく魂を消耗する行為」です。

おいしいものをたべて、満たされる、恋愛をしてドキドキして、それをはたす、ギャンブルをしてえるかえられないかをどきどきわくわくする、買い物・旅行で快楽をえる、愚痴をいって、飲酒をして快楽をえる。そのつどドーパミンがだぶだぶでるような行為を果たした時に、魂は大漁に消費します。

魂というのはいってみたら「運命」をつくるためのものでもあります。自分というものを維時するだけでなく、「それをささげて」「神仏でもなんでもなにかしらに」運命をつくらせるためでもあるわけです。

だからこそ、祈祷でもなんでもするお坊さんでもなんでも「快楽」を断って、自分のたましいを消耗しないようにして、つかうべきときに放出するわけです。そしてまた人の役にたって、魂ためて、放出しないように「行」をして、きたるべきときに放出するのです。

そもそも人の役にたったり、回復するようなこともせずに、放出するだけすれば、ひからびて、人の魂はなくなっていきます。

禊、精進潔斎、なんでもそうですが「快楽」で消耗しないためのテンプレのようなものです。瞑想して、無になったら、妄想して快楽で消耗することもないでしょう。妄想して、うふうふと愉悦に浸るだけでも消耗するんですから。

瞑想していると調子がいいのもこれです。消耗しないので、自分のからだ、肉体の維持のためにつかえるわけです。

つまるところ、修行で霊能力がふえる、というわけではありません。消耗せず、自分の好きな神仏にささげる対価を支払える、ということになります。

また、人の魂がふえると、もともと「あった」能力であれば、研ぎ澄まされることがあります。

きける耳をもっていたのに、消耗して魂なくなってて、きこえにくくなっていた、というのであれば、そこが回復して聞こえる、ということはあります。

なんとなく勘どころがよくなる、ということはあります。

まあ、快楽だけが消耗することではないですが、人間の「しあわせ」というのは快楽ですから。快楽を得ないだけでもだいぶエコなんですよ、というお話しです。

修行って何すればいいのか、なんのため・・?とぼんやり思っている人がいれば参考にしていただければと思います。

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