めいわく

投稿者: | 2019年12月1日

「申しておこう、
共鳴というものは
痛ましい運命をもらおうとする。
失望し、苦しもうとする。
共鳴は人とあうこと、ともすればネットでもそうだが
人と触れ合うことで通される

人と会う運命を求める心がつくられ
人と会い
人と会うことで
痛ましい運命を通される。
人にあうことを妄執し
人とあうことを求め、
人にあって共鳴し、
人から見ると痛ましい運命を作ろうとする。

人に会う、人にみとめられる
人とともにあゆもうとする。
信仰心も、妄執も、そのためにある。
一人で生き、そして人を求める心があれば
「どうか仲良くしてくれる友人が欲しい、寂しい」と神にもとめ、信仰す。
人に会えば、人と共鳴し
苦しみ、あるいは快楽が得られる。

人と会うのを求める元となるのは
自分の中に迷惑があるからである
迷惑とは迷いと惑いである。
人の中に迷惑あれば、人を妄信する、人を妄執する。

どうすれば幸せなのか、
どうして心身めぐまれたものとそうでないものがあるのか
力や権力とはなにか
愛とはなにか
迷惑があれば人は「形」を求める。
人や世の中からこれが正しい、こういう形をもっていていいなとされると
その形であればいいのだな、そうすれば迷わなくていい、惑わなくていいのだとする。

迷惑があり
人を求め、人を求める心がうまれ、
人を求めて共鳴し
望ましくない運命なども人とのあいしょうからつながる。
そして、相性から相手の負を受け
さらに相手を求め、
身はつらくなっていく。

迷いがなければ人に形をもとめずにすむ。
共鳴し、消耗せずもすむ。
消耗なければ静養なくてすむ。
すなわち
真理とは相性と共鳴であり
共鳴は迷惑と消耗と静養である」

人の魂が他人や信仰を求める、というのはそもそも「めいわく」があるのだそうです。なにが正しいのか、正悪より以前のものですね。

迷いと惑いから正解をもとめ、よい形をもとめる。

人の魂というのはそうなっているそうです。そりゃ、なんで自分は恵まれていないのか、どうしてそうなんだ、愛ってなんなのだ!と迷い惑うのも当然かもしれません。そう制約がかけられているのです。

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