消耗と静養

投稿者: | 2019年11月28日

いま向かい合っているテーマのひとつです。

人と干渉するのは消耗します。共鳴が走るからです。人とかかわって共鳴しないことなどありません。

よほど全部魂の中が空になっていて、他人をみてもなにも感じない、かわいそうも申し訳ないも、意識にもひっかからない、その辺の空気かなにかのようにしか思わない、というのであればとにかく、そうでない限り、人とかかわるのは共鳴します。


そして消耗すると、魂がどうしてもけずれていきます。共鳴することで、魂の殻が壊れて、相手とつながったり、壊れているところから振るわされることで漏れ出ていくからです。

ですからから、人は静養しようとします。
どうなるかというと
「あーひきこもりたい、だれも干渉しないで!」という状態です。
誰ともあいたくない、いま話かけないでもらいたい。
ひきこもって自分の趣味のことやっていきたい、逃避したい。これが極まると
人と干渉しないように自死までいきます。

消耗と静養は表裏一体です。
消耗しないようにたもっていれば、そこそこ人とかかわってもわずらわしさはそうそうありません。ですが
消耗がはげしくなれば魂の中でスイッチが切り替わり、静養しようとします。
よるなさわるな、わずらわせるな!静養させろ!かかわるな!と、
静養するほうに心が走ります。

なにかに忙しくしているときや、くたくたのときというのは人と会いたくなくなったり、なにか干渉されるとイラっと来るでしょう。

会いたくない、よるなさわるなモードになるでしょう。

それが消耗からの静養です。消耗がなければ静養もしなくてもよく、また逆もしかりです。

どうしても動けない、辛い、気持ちが堕ちている、かかわりたくない、というときには、あなたはすごく消耗していて静養心が働いているわけです。からだはなんともないのに、かかわりたくない、辛い、おっくううでたまらない。というときにはこの消耗と静養と、そのスイッチングしている「とあるもの」が惑っている状態です。こうなると回復は容易ではありません。ですが不可能ではありません。

自分自身が消耗していることに気づかず、静養心だけ強くアクティブになっているようなものですから。

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