おやのかわり、ひとのかわり

「妻が浮気をしているみたいなんだよね。子供も預けて相手とあっているみたいで…。でも子供のこともあるし、別れたら相手もかわいそうだし…」

と煮え切らない友人や同僚がいたとします。

そのときあなたはどう思考が走りますか。

①ふぅん、そうなんだ。

②自分なら興信所雇ったり証拠集めして、ああしてこうして…

③同僚がかわいそうだ、子供とられたくないだろうな、子供もかわいそうだ。

 


自分の中に全く相手と共鳴するものがない場合は①になります。相手のことをかわいそうだとも、対抗心も、相手に対して思いが走ることはありません。

③は「かわいそう」という道理が自分の中にたくさんあります。相手が、子供が、こういう境遇がかわいそうだ、と道理が自らをたくさん縛っています。

②今日のお話はこれがメインです。よくあることではありますが、何か事柄があったとしたら、自分ならこうするのに、自分ならこうやってこうやって、用意するのに、と、だれかの境遇を「自分だったら」と置き換えることはありませんか。

他人の子供が悪いことをしている。自分が親だったらあんなしつけはしないのにと思考が走る。

誰かが他人にものを教えている。自分ならそんな教え方なんてしないのに、もっと上手に教得られるのにと思考が走る。

 

勝手に、自分だったらこうこう、こうするのにと思考が走ることはありませんか。

そのシュミレーションをしているときどうですか。うっすらと心地よくありませんか。無意識でやっていることですが、その妄想に少し浸ってしまうくらい気持ちよくありませんか。

それもまた、快楽なわけです。

親の(かわりの)快楽であり、他人の(かわり)の快楽です。

快楽ですから、当然そこには悪魔が潜んでいます。

この「かわりの快楽」のもう一つ厄介な点は、人の身代わりをすることですから、当然人の罪カルマをしっかり受け取ります。

「あなたならどうする?」と相手に求められたのであれば、そのとき考えればよい、アドバイスを与えるならばとにかく、求められてもいない、ともすれば、相手が自分に相談すらしていないのに(自分ならこうしてやるのに)と思考が走るとしたら、しっかり自分の中に快楽を持っており、悪魔抱えている、ということに気づく、一つの指標になるでしょう。

 

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