哀れではないもの。

投稿者: | 2019年6月19日

ブログもなんだか久しぶりです。

ここ最近ありがたいことに依頼をいくつも頂戴しておりまして、毎日返信に長文を書いていたり、施術をして…とせわしなくしておりましたら、すっかりブログがご無沙汰になってしまいました。

さて、以前書いたかどうか失念しましたが、わたくしの母方の祖父母は認知症でして、祖父は他界しましたが、祖母は施設に入っております。会いに行くたびにいろいろなことを取りこぼしていっていますし、もう3年以上前から家族のことなど理解しておりません。

認知症にかかわるご依頼もある中、いくつか魂からみると、認知症とはどういうことなのか、というのを少しお話ししたいと思います。

認知症は周囲は振り回されるし、とてつもなく大変なものでもありますが、本人としては哀れなものではないそうです。子供に、赤子に還りたるようなもの、なのだそうです。

なぜ起こるのか、というと、いくつかの若年性のものをのぞき、年齢いってからのものは、世界を嫌い、魂が世界を嫌って否定したことから始まります。嫌い、で世界を統べてしまったことにより、認知の歪みが発生するのだそうです。

いまの自分の境遇が許せない、いやだ、こんな人生は嫌だ、世の中は自分をわかってくれない、と、魂が世界を嫌ったときに、忘却の種は生まれます。

初期であれば、此の世が、世界が好きで楽しいんだよ、というのを魂が理解できれば食い止められるものを、様々なことができなくなってきて、ある一定のラインをこえると回復は難しくなります。

高齢になって恋をしたら認知症が和らいだ、というのはまさに、恋をすることで、世界がバラ色になって、好きになったからです。

わたくしの祖父母は常に不満を抱えていました。あれこれ嫌だ、嫌いだとおもっても事業をしていたのと、政治的な付き合いがあったのでしょう、あれこれ嫌なこと、嫌いなことをし、耐えて耐えた祖母でしたし、世間の不満や子供、孫の不満を常にぶつくさいっているような祖父でした。

そういった世界を嫌いになって、魂が世界を否定したことで、生きながら生まれなおしたい、と思うのが認知症の種です。

なので、本人は哀れではないそうです。それでも肉体に残った記憶や、脳内に残った記憶や、本人の意識にこびりついた思いが発露することで、周囲は振り回されるものもあります。

まだ軽度で、まだらにぼけている方は、介護もつらいでしょうが、本人が「まわりに迷惑をかけて嫌だ、もういなくなってしまいたい」とおもったらどんどん進んでいきます。

此の世は楽しいのだ、と小さいころ好きだったようなおもちゃを差し出してみたり、好きだったごはんを楽しく食べさせたり、子供にかえっているのだから、小さい子供と遊ばせたり、此の世は楽しいよね、とおもってもらうことで、少しでも悪化を遅らせることはできるでしょう。

もし一定のラインをこえたら、もうあかちゃんになったのだな、と、あとは以前の本人ではなく、生まれ変わりたかった「誰か」なのだな、哀れでも苦しくもないのだな、とただ受け入れてください。

無理だなとおもったら哀れだ、かわいそうだ、と思わずに、里子にだすような気持ちでよいですから、施設でもなんでも介護の手にゆだねてください。

赤ちゃんなら抱いて止めることがでkることが、大人の体ですからそれは難しいでしょう。

認知症になるかも、と不要に畏れることはありません。

ただ、自分自身がなにかなすときに「好きだからこれをする」わけでなく、他のものは嫌いだからしかたなくこれをする、といったような「嫌い」を軸に物事を考えてしまう運命をお持ちであれば、なりやすくはなります。此の世や周りを憎んでも、嫌いだとおもってもなりやすくなります。

哀れではないこと、世界を嫌わないこと、それを今日はお伝えしたいと思います。

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