教えの段階

投稿者: | 2019年4月7日

六道輪廻という言葉があります。人間に生まれたからといって、人間道にいるとはかぎりません。

人間という形を持っていながらも、魂は地獄道、餓鬼道にある方もいらっしゃいます。そこから進み、人になっていくのです。

地獄、餓鬼、畜生道にいる方には「教え」が必要です。正悪が必要です。進んでいけば正悪を外す、という段階にいたりますが、そうでなければ正しいもなにもわからないからです。経典、古事記、創世記にかかれていることの中にはたくさんの真理や教えが詰まっています。それらを見て、己の中にあるものを見る。そして教えを取り込み、そこから学んでいくものです。

そこに包丁があります。子供にはその包丁は危ない、触ってはいけない、危険だ、やめなさいと伝えます。子供がもう少し大きくなったら、包丁はさわってもいい、人に向けるのはやめなさいと伝えます。ただ、大人になって包丁がどういうもので、人に向けたらどうなるか、を理解していれば、何もいわずともいいわけです。包丁自体に正悪はありません。その大人の中に人を害する心がなければ、人に包丁をむけたとしても、なにをしたとしてもよいわけでしょう。

殺してはいけない、盗んではいけない、ねたんではいけない、呪ってはいけない、姦淫してはならない、悪魔の誘惑に負けてならない、尽くしてはならない。そう教えていかなければ「やらかしてしまう」段階の魂にはやってはならないよ、こうしなさい、と教えをもってしなければ、進まないのです。ブレーキをかけなければうっかり不倫してしまう、ついねたんでしまう、人を呪ってしまう、そういう魂にブレーキをかけるのが教えです。

それらの教えをもってして魂を上の階層にあげていくのです。

教えすら順守できない、それすらできない魂の段階もあります。

「進化する運命」がない魂もあります。

「利己心のみで、救えぬものもある」のだそうです。日本の神様も、仏界の神様も首を横に振る、そういった魂もあります。

それが妖怪まで落ちてしまった人の魂です。地獄道、餓鬼道にあたる魂です。

真理を受け入れず、喜捨をせず、妄執し、体が重くてなにもうごけない。ただ蜘蛛の糸が天から下りてこないかな、と待つ魂もあります。

神様にそのありようをみせていただいたことがあります。

がりがりに痩せ、服もぼろく、周囲の人のもっているものをうらやみ、妬み、なにか食べようとしますが、そのための何かができません。働くことも、何か提供することもできず、食べたとしても食べれるものはわずかな穀物のみ。たすかりたいと、なにか欲しいと思って栄養剤、薬のようなものをたくさん接種するのだけれども、食べ物でないので吸収せず、ただ一時期気がまぎれるだけ。他の人がアドバイスしてもそれは耳には入りません。羨ましいと人に絡みつき、人からいろいろなものを吸い上げようとしますが、吸い上げた先からこぼれおち、吸い上げようとした分自分を尽くしてしまいます。

それが妖怪です。

こうなると、話も聞かない、自らの重いものをお金に託して貧しきものに喜捨することもできない。尽くしすぎて体が動かない。

こうなると神様方では「倒す」しかなくなります。たおしてくだして、妖精にする。妖精にして、人の役にたつものにし、妖精として人の役にたったら、その分の対価として人の魂をちょこっともらう。それが溜まっていけば、やがて人の形にもどって生まれなおすことができます。

一度倒してしまわなければ妖怪はただその妖の技で人を呪い、自らを生霊のごとく飛ばして人を呪って尽くしていくしかないのです。

そしてそれはウィルスのように感染します。

界を渡りたい、上に上がりたいというのであれば、まずどの宗派でもよいですから、教えをまもること、利他の心をもつこと。徳を積むこと。もったいない、できない、ないんだもん、でなくてあるものを与えていくこと。自分が他者に求めた分、他者にあたえること。

人がなにかしたことによっていらつき、ああしろよ!こうしろよ!あっちいけ!あやまれ!など人に求めたり、認めてほしい、愛してほしいと人に求めたり、いまの不満もって何か求めた分のマイナスを精算すべく、与えること。

そこで、募金先の相手が信用ならないとか、きちんとしたところじゃないと、臓器移植は詐欺があるから、どこどこは広告ばかりにお金をつかっているから云々枠を決めることではなく、どこであろうと自らより貧しきものに喜捨すること。

お金、証には自分自身の罪が乗ります。乗っていきます。与える先が問題ではない、与えること、重いものを載せることが大事なのです。

自らの重さを渡すのに、相手がどうとかではないのです。

貧しきものたちは、その金銭を得ることで生活ができますが、その罪穢れもまた受け取ります。

そしてまたさらに貧しき者たちに喜捨していくのです。そしてやがて流れていくのです。

与えることがなにも「もったいない」「こんなことをしてどうするんだ」と思いがはしらなくなるまで、与えるのが当然になるまで、与えること。そこではじめてマイナスの「求めた」精算が終わります。

先に与えなさい、と神様よくいいます。

それは人が生まれてこのかた、与えるよりも求めているほうが多いからです。認められたい、愛されたい、認めてほしいと人に求めて、求めた分が大きくなっており、与えておりません。その分精算できるまであたえなければ逆転しません。だからこそ先に与える。出しすぎる、与えすぎるということはないのです。それよりもはるかに多く求めているのですから。

コメントを残す