ビワのたとえ

投稿者: | 2019年4月5日

先日夢をみました。

一本の大きなビワの木がありました。たわわに実っており、その中で一部、ちょっとかわったきれいな色をしたビワがありました。
それをみて「なんて素敵なビワだろう、ためしてみたいなあ」と思い、その琵琶の所有者に話しかけました。
「あのビワなんかかわっていますね。なんていうビワでしょうか」
所有者はにこにこ笑い、そのビワを口につっこみました。なんともいえない、えぐい味がして、吐き出してしまいました。
ムカッとして所有者に言います。
「なんでこんな食べさせ方をするんですか。しかもおいしくないならおいしくないっていってくれればいいのに」
所有者はそれを聞いてムカッとします。
「あなたが興味をもって食べたそうにしたのに、なんでそんなことをいうんだ。こっちだってよかれとおもってしたのに!」

どうでしょう。

「私」が望んでいたこと、すなわち「気になる、食べてみたい試したい」これはかなえられました。相手は食べさせてくれましたし、こちらがわくわくしたいと相手に求め、相手もどうかなと反応をわくわくしました。同じように期待をし、望んだものをもとめ、もらったにもかかわらず不和が生じます。

お互いそこに悪意はないのです。なのに不和が生じる。

「わくわくする」「期待する」というのはそういうことです。わくわくすることを人に求めるとはそういうことです。心の中で勝手に期待して、相手に求めているわけです。そしてそれが期待にあわなければがっかりする。期待が正しくなかったと正悪を付ける。

わくわくするのを人に求める、という想いがあれば、そこで正悪を付けてしまう。そして、人はお互い悪意などなくても不和が生じる。よかれとおもってもそこに対立が生まれる。そういう教えなのでしょう。


これだけですと記事が短すぎるのでもう少しお話しします。

よく質問されるのですが「他人の施術をお願いできるか」ですが、この答えは一つです。

「人が認めていないものは祓えません」

例えば妄執・悪魔・妖怪・役、なんでもそうですが本人が認めていないものというのは神様でも祓えません。本人が自分の中に認めてない、ということは本人と同化しているため「あるのにない」と同じなのです。いくら怒りできりきりしていようと、なにかに妄執して視野が狭くなっていたとしても、本人がそれをどうにかしたいと思っていたとしても、それが「なにからくるものか」中にあるものを認めていなければはがせないのです。

「彼がこうなりたいとおもっているから」「母を見るのがつらいから」と他者の祓いの依頼をされたとしても本人が自分の中にあるものを認めていないかぎり、罪カルマははずせません。むしろなぜ自分は他者の運命に介入したいとおもうのか、他者を(たとえそれが家族であれど)救いたいと思うのか、そこをまず見つめてください。救う役、家系への妄執、様々なものが隠れています。自分の中にじつはなにかの恐怖が隠れていることもあるのです。

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