心に役がつく

投稿者: | 2019年1月15日

いつもご覧いただきましてありがとうございます。

いま現在は「役」についてたくさん見せていただき、学ばせていただいております。

役を付けるのはほとんどが妖怪です。かみさまも付ける事ができますが、神様がつけるのは「進化をするための役」のみです。それ以外のいわゆる「役どころ」を付けるのは、妖怪、あるいは妖精の類です。

役をつける妖怪

役が心につけばどうなるかといいますと、意識がからめとられ、引っ張られます。ああしなきゃ、こうしなきゃ、とそのことだけが意識を占めて、盲目となります。焦りが出たり、どうしてもこれをしなければと駆り立てられます。

役がつけば、人に求めてしまいます。

簡単なところでいうと、あと始末をする役がつけば、だれかが失態を犯す、子供が散らかす、そういったものの後始末をしなければならないと駆り立てられ、後始末をすることになり、「後始末させるなよ、ちらかすなよ!なんなんだ!」とかってにイライラします。後始末をさせるな!と人に求めているわけです。

教育ママ(古いですかね)を例にたとえれば、教育ママは子供をなんとか「一人前」にしようとします。いい小学校からいい大学まで行き、いい職場につき、いい友人にめぐまれ、よい結婚をしてもらって、一流にしようと駆り立てられます。子供は親の教師であり、親になるということはそれだけ「子に教わらなければならない人間」なのにもかかわらず、自分を投影しようとします。そうなれば、当然子に求めます。駆り立てられ、子に求め、周囲にも様々なものを求めます。相手にもとめれば当然、その相手と共鳴し、あいしょうが生じます。

お金の役が付けば、たとえばお金に対して大変駆り立てられるものがあります。だれかがこのくらい払ったら、自分もこのくらい出さないといけない。釣り合っていなければならない、あちらが出したらこちらも同じくらい…と駆り立てられ、お金を出さなければとてつもなく申し訳なく、落ち着かなくなります。

人を救う役が付けば、頭がよければ医者などになるでしょうが、そうでもなければだれかに寄り添わなければ、助けなければと精神的に弱っている、弱い人のところに寄り添いたくなります。ヒーリングにもあこがれるでしょう。

救われる役が付けば、掬われよう、助けてほしいと願います。救われなければ救われるまでさまようでしょう。人に求めるでしょう。

信仰する役がつけば、信仰しなければと駆り立てられます。新興宗教に駆り立てられたり、苦労して信仰すること自体が役になります。

心に役がつけばもとめてしまい、絡めとられるのです。からめとられれば魂は自由でなくなります。人の失望が恐ろしく感じ、なにもできなくなります。役を果たせなければ、自分が無価値であるかのような不安と恐ろしさを感じます。

役が付き、求め、人と共鳴し、あいしょうがつき、カルマが通され、役を果たすために、魂を尽くし、自分の魂に負荷をかけ、つらくなり、エンプティになってしまったら心が重くなります。

役につきすぎ、魂に無理をさせ、悪魔をつけ、魂を削ってしまえば人のかたちを保てなくなります。たもてなくなったらもう、魂は妖怪に堕ちます。そしてその妄執から人にまた憑依する。

愛の反対は尽くすことです。尽くすことがなによりもの罪なのです。

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